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福島地方裁判所いわき支部 昭和61年(ワ)138号 判決

原告 佐藤清

同 佐藤ケサ子

同 佐藤金也

同 佐藤早苗

同 佐藤光男

右法定代理人親権者父 佐藤清

同母 佐藤ケサ子

原告 佐藤ナカ

右原告ら訴訟代理人弁護士 高井和伸

同 武田喜治

同 嘉村孝

右原告ら訴訟復代理人弁護士 速水幹由

被告 いわき市

右代表者市長 岩城光英

右訴訟代理人弁護士 市井茂

同 市井勝昭

同 今野忠博

主文

被告は、原告佐藤清及び同佐藤ケサ子に対し、各金五〇四万七八一七円、原告佐藤ナカに対し金一〇〇万円並びにこれらに対する昭和六〇年九月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

右原告らのその余の各請求並びに原告佐藤金也、同佐藤早苗及び同佐藤光男の各請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告佐藤金也、同佐藤早苗及び同佐藤光男に生じた費用と被告に生じた費用の五分の一とを同原告らの負担とし、その余の原告らに生じた費用及び被告に生じた費用の五分の四を一〇分し、その三を被告の、その余を右原告らの各負担とする。

この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告佐藤清及び同佐藤ケサ子に対し、各三〇九五万〇一九六円、原告佐藤金也、同佐藤早苗、同佐藤光男及び同佐藤ナカに対し、各五五〇万円並びにこれらに対する昭和六〇年九月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、いわき市立小川中学校(以下「小川中」或いは単に「学校」ということがある)三年生であった佐藤清二(以下「清二」という)が、昭和六〇年九月二五日に自殺したことにつき、これは、清二の同級生である甲野利信(以下「利信」という)らから継続的に暴力を振るわれ、暴力を背景にして金銭の支払を強要されるなどのいわゆる「いじめ」を受けたことを苦にしてなしたものであるところ、学校側としては、清二の心身の安全を保持すべき義務があるにもかかわらず、右義務を怠り、前記いじめを看過し放置するなどしたため、利信が悪質かつ重大な前記いじめ行為を継続し、これにより清二をして自殺にまで至らしめたものであるとして、清二の父母ら家族がいわき市に対し、民法七一五条一項または国家賠償法一条一項に基づき損害賠償を請求するものである。

一  争いのない事実(実質的に争いのないものや法的主張を含む)及び証拠上比較的容易に認定できる事実

1  清二は、昭和五八年四月小川中に入学し、利信とは一年生時から通じて同クラス(三年生時は二組)に所属していた。

2  清二は、昭和六〇年九月二四日朝、学校の門前で同級生に「医者に行くから先生に言って」と伝言を頼んで姿を消したまま登校せず、また、同夜は帰宅せず、翌二五日午後四時五〇分ころ友人の鈴木三友(以下「三友」という)宅に現れ、所持していた腕時計とその保証書を三友に預けて「この時計は母ちゃんに黙って買ったから預かってて」と頼み、更に「母ちゃんに怒られた時見せて、これで自殺するつもりだったんだと言うんだ」との口実で果物ナイフを借り受けたが、結局帰宅しないまま、同日午後七時ころ、いわき市小川町上小川字細石所在の農具小屋で首吊り自殺をした。

3  原告清は清二の父親、同ケサ子は母親、同金也は兄、同早苗は姉、同光男は弟、同ナカは祖母である。

4  小川中は、被告の設置管理にかかる中学校であり、校長は、清二の二年生時までが熊谷文彦、三年生時が草野行康、教頭は二階堂正三、生徒指導主事が二年生時から香野輝雄、担任は二年生時が斎藤裕幸、三年生時が大河原剛であり、これらの者はいずれも被告のいわき市の公務員であって、国家賠償法一条にいう公権力の行使に当たるものである。

5  小川中の校長以下の右各教師らは、学校教育法等の法令に基づき、学校における教育活動及びこれと密接な関係にある生徒相互間の生活関係においては、法定の監護義務者(親権者等)に代わって生徒を保護監督し、生徒らの安全を保持すべき義務を有する。

6  清二の一年生時の欠席日数は四日(いずれも理由は風邪)、二年生時の欠席日数は一七日(うち風邪五日、けが七日、その他五日(うち登校直後の学校抜け出し二日))、遅刻一回、早退六回であり、三年生時は、自殺までの約半年間に欠席五日(うち二日は自殺直前の家出によるもの)、遅刻一回、早退五回であった。(以上につき、〈証拠〉)

7  二年生時に清二に生じた出来事のうち、学校側がその都度認識したこと及びそれに対して学校側がとった措置等は以下のとおりである。

(一) 清二は、昭和五九年四月二六日ころ、利信から一五〇〇円を借金したところ、これを同月二八日までに返さないときは一週間が経過する毎に五倍ずつに増やす旨の約束をさせられ、その後これが返済できなくなり、利信から右借金と利息の返還を強要され、同年五月一八日、これによる利信の暴力を怖れたことを主たる理由として三友とともに学校を抜け出し、遠出して警察に保護された。そこで、同月二一日、担任の斎藤教諭らは、清二に、金銭強要については担任から利信に強く指導するから心配しないようなどと説諭し、原告ナカに対し、金銭の貸借が家出の原因なので、金を貸借しないよう家庭でも十分気をつけてもらうよう話し、利信に対し、友達同士の金銭の貸借はしないよう注意した。利信は、「これから注意します。」と答えた。(以上につき、〈証拠〉)

(二) 同年五月二八日、利信が他一名とともに、学校の休み時間に廊下で清二の頭部を殴ったため、清二は、学校を抜け出し、斎藤教諭に見つけられて連れ戻された。同日、同教諭らは、利信、清二ら関係生徒に、仲良くし、冗談やふざけて暴力を振るうような真似を絶対しないよう約束させ、更に利信ら加害生徒に対しては暴力がたとえ冗談や遊びだからといって許されない旨指導したところ、利信らは、同教諭らの前で、非を認め清二に謝罪した。そして、斎藤教諭は、同日原告ナカに対し、清二の学校を抜け出した事実を連絡し、加害者が非を認めて反省しているので許して欲しい旨告げた。清二は、翌二九日、下校後自宅に帰らずに外泊したが、斎藤教諭らは、右外泊について、前記のような金銭関係のトラブルがまだ継続しているのか、暴力によるものか、それとも遅くなって家人に叱られるのをおそれただけなのかなどと考えたものの、結局、同月三一日、清二に対し、遅くなって叱られるからといって安易に外泊しないようにと注意したのみであった。また、原告ナカに対し、外泊を絶対させないよう注意した。(以上につき、〈証拠〉)

(三) 同年八月二九日、利信は清二に対し、下校途中暴力を振るったうえ、二五〇〇円を翌日までに交付するよう強要した。清二は、翌三〇日、金がないため、利信の暴力を怖れて、同じく利信から三五〇〇円を要求されていた三友とともに登校直後に学校を抜け出し、夕方斎藤教諭に発見された。そこで、同教諭は、同月三一日、清二に対し、暴力を受けたり金銭強要をされたら担任にすぐ打ち明けるよう指導した。また、同日、斎藤教諭や校長らは、利信に対し、悪かったと反省する気持ちが薄い、進むべき道をまちがっているから正すようなどと注意し、更に利信の母親と話し合い、家庭での指導が困難なようであるとして、児童相談所等での相談を勧めたが、母親は乗り気でなく、「本人によく話して聞かせるので許して欲しい。」旨述べた。(以上につき、〈証拠〉)

(四) 清二は、同年一〇月六日、利信から金銭を強要されて同日下校途中待ち伏せられることを斎藤教諭に訴えたので、同教諭が清二らを車で三友の家まで送り届けたが、その途中で清二の訴えどおり、利信らが清二を待ち伏せしていた。

同教諭は、同日、清二に対し、打ち明けたことをほめ、今後も遠慮なく言うよう指導し、利信に対し清二への金銭強要が続いているのに嘘をついていた旨注意し、今後清二らに暴力や脅しをしないよう指導し、利信もこれを約束した。にもかかわらず、利信は、同月九日までに清二から三〇〇〇円を強要して取った。そこで、同教諭は、同月九日、清二に対し、同じことを何回も繰り返すのは清二自身にも悪いところがあるので、十分注意するよう指導し、利信及びその母親から、三〇〇〇円を返金させるとともに、利信に対し、弱い者から金銭を強要することは大変悪い、清二の立場になって考えるようなどと指導したところ、利信は、一応自分が悪かったことを認めた。また、利信の母親に対して、右脅しの事実を告げ、家庭での指導を促したところ、母親は「注意します。」と答えた。

(以上につき、〈証拠〉)

(五) 同年一〇月、清二の学校に納入すべき給食費、諸会費の滞納が四か月分に達したので、斎藤教諭は、同月二六日、清二に必ず家の人にもらって来るよう指導し、原告ナカに、未納状況を連絡したところ、清二の使い込みが判明した。同月二七日、原告ナカが未納金二万円を持参して支払ったが、その際、同教諭と原告ナカとの間で、今後学校へ納入すべき金は、原告ナカが直接学校へ持参することを申し合わせた。(以上につき、〈証拠〉)

(六) 斎藤教諭は、昭和六〇年二月ころ、清二の早退がそのころ多くなっていることなどから、利信の清二に対する脅迫、金銭強要が続いているものと考え、清二にその有無について尋ねたが、清二はこれを否定した。そこで、同教諭は、清二に対し、集団生活の大切さを話し、どんな小さなことでも先生に話せる生徒になって欲しいと指導したが、清二は殆ど話さず黙ってうなずく程度であった。そして、同教諭は、同日、利信に対しても、「しばらく問題行動がなくなってきているが、最近金銭強要を清二以外の生徒にもしていないか。」と尋ねたところ、利信は「やっていない。」と答えたので、同教諭は、「心を引き締めて生活するよう。」と指導した。(以上につき、〈証拠〉)

(七) 同月一二日、原告金也が学校を訪れ、斎藤教諭と面談し、利信のいじめが続いているのではないか、学校生活における清二と利信との関係はどうかなどと尋ねた。その結果、今後も学校と家庭で互いに連絡を密にしていくことなどが確認された。

この際、二階堂教頭は原告金也に対し、清二に対しては厳しく叱るのではなく、親切に教えてやって貰いたい旨話した。(以上につき、〈証拠〉)

(八) 同月二三日、利信は、清二他一名とともに、バイクに付いていたエンジンキー及びヘルメットキーを窃取したうえ、バイクを盗もうとして警察に補導された。そこで、斎藤教諭は、右三名に対し、以後このようなことをしないよう指導した。(以上につき、〈証拠〉)

8  三年生時の出来事のうち、学校側の認識していたもの及びこれに対する学校側の対応等は以下のとおりである。

(一) 利信は、昭和六〇年四月五、六日の二回にわたり、清二に対し、五〇〇〇円を強要した。これを知った香野教諭及び大河原教諭は、同月八日、清二に対し「理由もないお金を出す必要はない。利信には指導しておくから、心配することない。」と話したうえ、香野教諭が、同日、利信から事情を聴取すると、「清二に『ズボンを買うため五〇〇〇円貸せ、持ってなかったら集めろ。』と言った。母さんにズボンのことを話しても買ってくれない。」と言ったので、利信に対し、「そんなに必要なら母親に先生が頼んでやるから友達から借金しないように。」と指導した。そして、同教諭は、同日利信の母親に利信の弁解を伝えると、母親は、「本人はズボンを買って欲しいとは言っていない。欲しかったら買ってやる。」と言ったので、金銭関係の大切さを教えて欲しい旨要請した。(以上につき、〈証拠〉)

(二) 清二は、同学年の大内孝幸(以下「大内」という)に殴打されたため、同月一三日、登校直後に無断で早退した。同月一四日、大内が謝ったなどとの内容の原告ナカからの手紙が届いたため、香野、大河原両教諭は、大内と清二とを呼んで仲直りをさせ、かつ大内には弱い者いじめをしないよう、清二には無断で早退せず、何かあったら担任に相談するよう指導した。(以上につき、〈証拠〉)

(三) 利信と清二は、同月一六日、金銭の貸借に関して言い争ったため、大河原教諭は、同日クラスの生徒全員に金銭の貸借はまちがいのもとなので絶対やらないよう注意するとともに、利信に対して金の貸借を絶対やってはいけないなどと注意した。(〈証拠〉)

(四) 利信は、同月一七日、クラブ結成時に教室内の他の生徒や教師の目の前で、清二の顔にマジックインクでいたずら書きをし、清二は黙ってなされるままになっていた。そこで、大河原教諭は、利信に対し、弱い者いじめは絶対にしないようになどと指導し、清二に対し、そのような行為には勇気をもって拒否するよう指導した。(以上につき、〈証拠〉)

(五) 大河原教諭は、同月二三日、清二宅を家庭訪問し、原告ナカと清二の日常生活について話し合ったが、原告ナカから、清二は二年生の時友人にいじめられたことがあるので、いじめられないよう気をつけて欲しいと言われた。同教諭は、よく調査して指導する旨話した。(以上につき、〈証拠〉)

(六) 利信は、同年五月一一日ころ、清二に対し、一五〇〇円を他の生徒から集めて渡すよう命じたところ、清二は、これを同日大河原教諭に打ち明けた。同教諭は、同日、清二に対し、利信を指導しておくから清二は金を集めないよう指導し、利信に対し、かわいそうだ、すまないことをしたと思わないかなどと説諭した。(以上につき、〈証拠〉)

(七) 清二は、同月一四日、同級生の菅野健一(以下「菅野」という)と一緒に、先輩から金を集めると指示されたとの虚偽の事実を口実に、同学年の岡田栄作に一〇〇〇円を支払うよう要求した。しかし、その後、菅野が右の指示されたというは虚偽である旨暴露したので、清二は、同月二二日学校の休み時間に廊下で岡田から殴打された。大河原教諭は、同月二三日、清二と菅野の二人に対し、他人をだまして金を集めるなどは大変悪いから二度としてはいけない旨、岡田に対し、人を殴打してはいけない旨指導した。(以上につき、〈証拠〉)

(八) 清二は、同月一五日、登校後、教師に医院に行く旨告げて外出し、夕方学校に戻ったが、右理由は嘘であった。大河原教諭は、同日清二に、悩みごとがあるなら隠さないで正直に話してくれるようなどと述べて、外出の理由を尋ねたが、清二は話さなかったので、清二に反省を求めた。(以上につき、〈証拠〉)

(九) 清二は、同月二四日ころ、利信から二〇〇〇円を集めろと言われたが、金を集められないので、利信の暴力を怖れ、同日、大河原教諭に対し、医院に行くためなどと虚偽の口実を告げて学校を早退した。同教諭は、同月二五日、清二から、右早退の原因を聞き出し、清二に対し、そういうときには、勇気をもって先生に話すように指導し、原告ナカに事実を知らせた。原告ナカは、同教諭に対し、原告ナカの書いた手紙を持たない時は早退させないでほしいと依頼した。そして、同教諭は、同日、利信及びその母親にも右金銭強要の事実を告げて、「今度やったら施設に送る。」旨述べるなど、やや強い調子で注意した。(以上につき、〈証拠〉)

(一〇) 清二は、同年六月一七日朝、同級生を通じて大河原教諭に気分が悪いから休む旨伝えたうえ、三友とともに学校を欠席して遊んだ。同月一八日、同教諭は清二に対し、右欠席につき、深く反省するよう指導した。(以上につき、〈証拠〉)

(一一) 利信は、同年七月一〇日、学校の理科室で清掃時間中、試験管に入った水酸化ナトリウムの水溶液を、清二の服の襟元から背中に流し込み、そのため背中全体が赤くなるという火傷を負わせた。現場に居合せた生徒からの通報により、直ちに香野、大河原両教諭が駆けつけ、香野教諭が応急手当をするとともに、その場で清二と利信に事情を聴取すると、清二はぶつかってかかった旨言い張り、利信は清二がかけても良いと言ったのでかけた旨弁解したので、同教諭と大河原教諭は、たとえ相手の了解があっても薬物なのだから慎重に取り扱う必要のある旨注意した。しかし、利信は、右の注意を受けても、自分の取った行動をさほど悪いとは思わず、反省の態度が見られなかった。両教諭は、清二に対しても、事実を隠したり嘘をついてはいけないと強く指導した。また、大河原教諭は清二方に電話して、右事件を報告し謝ったところ、電話に出た原告ナカは「これから気をつけて下さい。」と要望した。(以上につき、〈証拠〉)

(一二) 清二は、九月五日午前、気分が悪いと言って学校を早退し、三友、菅野とともに、神社裏で喫煙し、教頭と稲村教諭に補導された。清二は、右教頭らから嘘をついて早退した理由を聞かれたが、無言でいた。教頭らは、二度とやってはいけない旨清二に約束させた。(以上につき、〈証拠〉)

(一三) 清二は、同月一七日、学校を無断で早退して三友の家で遊んだため、翌日、大河原教諭が清二に早退の理由を聞いたが、黙ったままで何も答えなかったので、同教諭は、無責任な行動を取ってはいけないなどと指導説諭した。(〈証拠〉)

9  昭和六〇年九月二一日、清二は、生徒会選挙演説会のとき、二年生の教室に入り、他生徒のバッグから飴玉二個を盗み、更に現金を物色中、香野教諭に見つかった。同教諭は、清二から、右盗みの事実と、同様に同月一九日にも九五〇円の盗みをし、これを同月一九日と同月二〇日に分けて買い食いをして消費したこと、また、利信から弁当を買うよう命じられて五〇〇円を預かり、同級生の長沢覚からサンドイッチを買うよう命じられて一五〇円を預かり所持していること、更に利信から、同月一八日朝学校で「翌日一万円を持って来い、持って来なければ殴る。」と言われ、翌一九日朝忘れたと言って利信に殴られ、その翌二〇日朝には便所で殴られ、二万円持って来いと言われたこと、右盗みを繰り返したのはこのように利信に金銭を強要されたためであることを聞き出した。その際、同教諭は、清二に対し、「先生から甲野をよく指導しておくから心配するな。」と諭した。(以上につき、〈証拠〉)

同教諭は、同日、右一九日の盗みについて被害者に当たって、その被害額を一一〇〇円と確認したうえ、大河原教諭に清二の盗みの件を報告し、同教諭とともに、清二に対し、二度と盗みをしないよう説諭し、大河原教諭は、清二の自宅に連絡する旨告げ、更に草野校長が今後そのようなことをやらないよう説諭し、清二を帰した。しかし、清二が窃盗の動機として言った利信からの金銭強要については、香野教諭は、大河原教諭ら他の教師や草野校長らに告げず、したがって大河原教諭及び草野校長は、清二に盗みについて説諭等する際、右金銭強要への言及を全くせず、香野教諭自身もこの点を更に言及しなかった。(以上につき、〈証拠〉)

香野教諭は、その後同日中に、利信及び長沢覚に対し、清二に金銭を預けたことを確認のうえ、むやみに友だちに買物を頼まないよう説諭し、各預け金を返金した。同教諭は、更に、利信に「どうして一万円もってこい、集めろと言ったの。」と尋ね、「冗談で言った。」と弁解されると、「冗談にしろ言ってよいことと悪いことがある、今後このようなことを絶対しないように。」と指導し、利信を帰した。(〈証拠〉)

10  昭和六〇年八月ないし九月初めころ、清二方では、原告ケサ子が他から集金し保管していた一万円が紛失し、それについて原告ケサ子が原告ナカに対して「取らなかったか。」と聞いたため、原告ナカはいたく立腹し喧嘩になったが、その後右一万円は清二が盗んだことを白状し、原告ケサ子に謝った。また、清二は九月一五日ころ、家族に内緒で腕時計を購入した。(以上につき、〈証拠〉)

二  主たる争点

1  利信の清二に対する継続的な暴力、これを背景とする金銭強要等の実態について

学校側が認識していた前記一7ないし9のそれのほかにどのような事実があるか。また、このような利信の行為をいじめと見るべきであるか。

2  利信の右行為と清二の自殺との間に因果関係はあるか。

原告らは、清二は直接的には利信のいじめに耐えきれなくなって自殺したものであると主張するのに対し、被告は、前記一6のとおり、清二の欠席は三年生になってから少なく、このことは清二をして登校を拒否させる程の要因は学校生活にはなかったとということを物語っているとしたうえで、清二は、かねて原告ケサ子と原告ナカの不和があったところに、自分が原告ケサ子の一万円を盗んだことに端を発して両名の間にいさかいが生じたことや、家族に隠れて腕時計を購入したこと(前記一10)などについて悩んでいたものと思われるところ、原告ケサ子が学校に呼び出されたことによってこれらの事実が明るみに出るのではないかと怖れたこと、また、清二にとって原告ナカら家人は怖い存在であり、前記のように原告ナカと原告ケサ子の不和もあるなど、家庭が安らげる場ではなかったというような家庭の機能的欠損、更には、思春期特有の様々な精神的葛藤のために自殺したものである旨主張する。

3  清二の自殺について学校側に過失があるか。また、その過失と清二の自殺との間に因果関係はあるか。

(一) 原告らの主張

(1)  学校が負っている保護監督義務等は、親権者の一般的監督義務に対し、補充的、副次的なものではなく、義務が重なり合う範囲では同レベルで併存する。

のみならず、学校設置者が、義務教育制のもとで、生徒を嫌でも学校に登校させ、その教育指導下に置く以上、それにより生じる他生徒からのいじめなどの危険から生徒を保護するべき責務を当然に伴う。そのため、右安全保持義務の内容は、生徒の生命、身体の安全について万全を期するべき注意義務であり、通常の善良な管理者の注意義務より遥かに高度の、未成年者に対する親権者の監護義務よりも高度な義務である。また、右注意義務は、その衝に当たる者が当然に負うべきものであるから、客観化された義務である。そうすると、学校側の過失責任は、実質的には、無過失責任に近いものとなる。

仮に、このように言えないとしても、学校教師等の監督義務は、親権者の一般的監督義務と比べ、機能する範囲が特定の生活範囲に限定されるだけで、その発動の範囲では、程度に差異はないというべきであるから、親権者の監督義務と同様、被監督者が、責任能力ある行為無能力者であっても、民法七〇九条に七一四条的な考え方を統合させるべきである。そうすると、教師等が監督義務を怠らなかったことまたは仮に監督義務を怠らなくとも到底損害発生を避けられなかったことが明白であることの主張立証がない限り、責任を負うべきである。

仮に、これを一般の不法行為として考えるとしても、学校側の過失の有無を判断するにあたっては、学校設置者、教育委員(会)、校長等の学校管理者と、校長、教頭、教諭等教育専門職者を含む学校組織全体の安全義務即ち組織過失を問題にするべきであり、右過失判断の基準となる注意義務の程度は、教育専門職にある者に要求される高度な職務上の注意能力を前提とするものでなければならない。

(2)  学校生活関係における児童、生徒間のいじめ及びこれによる自殺の問題は、既に清二自殺の数年前から大きな社会問題になっていたから、少なくとも度を越したいじめを加えられた被害生徒が自殺に追い込まれる危険の極めて大きいことは既に常識化していた。

また、いじめは、被害者は勿論他の生徒達も教師に真相を報告しないため実態を把握しにくいこと、しかし、それだけに表面化した事実の背景にはその何倍ものいじめが潜んでいると見るべきことも既に常識となっていた。

(3)  ところで、利信の清二に対する本件いじめは、学校側が認識した事実だけでも、長期かつ多数回にわたり、その内容も極めて程度のひどい悪質なものであり、まして、教師は、清二が休み時間だけでなく授業中にまで職員室から離れられなくなるような異常な状態を認識していたのである。

しかるに、学校側は、このような事実を直視しようとせず、敢えてこれをいじめにあたらないものとみなすなど、ひたすら楽観的な見方と誤った判断に固執して、その背景にある隠れたいじめを探り、これを抜本的に解決するための努力を払わなかった。

即ち、学校側は、第一に、清二に対するいじめについてその深刻さを認識しうべき状態にあり、したがって清二の自殺についても予見可能性と予見義務があったというべきであるのに、これを認識し、予見することをせず、第二に、利信の清二に対するいじめを抜本的に解決するために利信に対する補導や司法的手続をも含む実効性ある措置を講ずべきであったのに、これを怠り、その場しのぎの形式的でおざなりな指導に終始し、あまつさえ、被害者である清二に対して厳しく当たるといった偏頗で不適切な指導をした過失がある。

(4)  九月二一日の清二の教室荒らしに対する香野教諭をはじめとする学校側の措置は、右事件の背景にある利信のいじめを重視することなく、単なる清二の窃盗非行ととらえた指導に終始したものであり、そのために清二を絶望させ、また、清二の告白により利信の報復が予想されるのにこの点について何ら配慮をしないまま利信を形式的に指導したために、清二を危険に曝したものであった。これによって清二に家出及び自殺を決意させた重大な過失がある。

(二) 被告の主張

(1)  学校教育は、家庭内では実現しえない集団内での教化育成を行う目的で行われるものであり、教師の生徒に対する監督義務の範囲は、右目的からの活動及びそれに密接に関連する生活関係に限られる。これに比べ、親権者の監督義務は、子の生活全般にわたる。したがって、教師の生徒に対する指導監督義務は、親権者の右義務に対し、補充的、副次的なものにとどまる。

(2)  一般的に学校教育の場で、生徒は、他の生徒との接触や衝突を通じて社会生活の仕方を身に付け、成長していく面がある。したがって、学校が、生徒間の衝突等一切起らないように常時監視し、管理するのは適当ではなく、また不可能でもある。それ故、学校としては生徒間の衝突等が通常見られる程度を越え、集中的継続的に行われるのでない限り、教育的な配慮から実情に応じて柔軟に対応を考えていくべきものである。学校は、犯人探しの場ではなく、あくまで教育相談的手法により本人の心の変容を期待しながら指導援助する方法を取る。そうすると、問題生徒が短期間に立ち直るケースは余りなく、それが、学校の指導は頼むに足りないとか、表面的な注意に終始しているように見えるかもしれないが、決してそのようなことはない。問題が起きた際一々警察に届けるのは或る意味で教育の放棄であって、裏切られても根気良く指導していくのが真の学校教育の姿である。

(3)  学校側は、いじめ防止の観点からは、清二の訴えに、その性格等を考慮して十分に耳を傾け、正当かつ真剣に受けとめてきた。清二が利信との関係等について話をしようとしないので、どんなことでも教師に話すよう指導もした。しかし、清二からはいじめにつき、正確かつ具体性を持った申し出はなく、清二の家族からも連絡等の際清二がいじめを苦にしているとか生徒間の接触衝突等の域を大きく越える異常があるとかの申し出はなかった。担任教師等は、学級懇談会の機会等を捉えて学級内の状況把握に努めていたが、清二が利信からいじめを集中的に受けていた様子はなく、むしろ仲良しグループである様相を呈していた。したがって、学校側は、清二に対するいじめを認識しうる状況下になかった。また、昭和六〇年九月二一日までの時点では、清二の自殺を予期させるような緊迫した具体的状況は存在せず、同日午後以降清二が自殺した同月二五日までの間清二は学校教育の手の届かない生活範囲内にあった。それ故、学校側が清二の自殺を予見することができなかったのは当然であり、このことは清二の家族も同様であった。このように、清二の自殺は誰もが予想外とする突発的な事故であったといわざるをえない。

(4)  学校側は、清二の学習面での問題や暴力行為、家出、無断外出、金銭の使い込み等の問題行動が起こった都度、担任教師等が本人に個別指導により問題点を指摘して注意し励ますなどして指導した。清二の家族とも、担任が、家庭訪問して原告ナカと面談し、学校での三者懇談会等において原告ケサ子、同ナカ、同金也との間で、清二の問題点について指導の仕方を話し合うなどした。また、前記一7ないし9中に挙げたような清二に対する利信の問題行動についても、学校の知った範囲内のことについては、けっして放置せず、できる限りの努力をし、根気強く指導するなど有効適切な対応をしてきた。清二や家族からの訴え、他の生徒からの訴えに対して表面的な注意に終始したことはなく、清二にはむしろ多くの教師が援助の手をさしのべてきた。

(5)  昭和六〇年九月二一日午後以降清二の自殺に至るまでの間は、清二の生活関係が学校教育の手の届かない生活範囲に入っていたから、学校側が自殺防止をする監督義務の履行は不可能であった。この間の清二への監督義務は、親権者のそれが期待され、親権者等による自殺防止の適切な措置こそ第一次的に取られるべきであった。ところが、親権者を含む原告らは同月二五日に法事のため栃木県に出向くなどして、右予防措置を取らなかった。

(6)  清二の自殺原因は、前記2の被告の主張のとおりであり、仮に清二の学校内の葛藤が遠因であったとしても、学校側の行為には、責任を帰属させるべき程の因果関係或いは過失はなかった。

4  清二の自殺について、清二自身及びその家族(原告ら)の責任の有無及び程度

(一) 被告の主張

仮に、清二の自殺につき学校側に責任があるとしても、以下のように清二自身及び清二の家庭側の事情等、被告の責任が減弱される要素があるので、過失相殺がなされるべきである。

(1)  清二自身は、非常に温和で素直な性格であるが、自分の考えで行動することが難しく、ことの善悪にかかわらず誘われれば断ることができない弱さがあった。また、清二は、金銭浪費の悪い習慣等から問題を起こすことが度々あった。即ち、家庭からの金銭持ち出し、教室荒らし、先輩の名を使っての金集め等、自分の欲望を満たすための行為に及び、このほかにも暴力、金銭貸借、無断外泊、万引き、授業の抜け出し、喫煙、嘘をついての外出等かなりの問題行動があり、草の葉などを口に入れ噛んでいるというような奇行もあった。

(2)  一方、清二の家庭は、祖母である原告ナカや兄である原告金也が清二の教育指導に重要な役割を果たしていたところ、両名とも清二にとっては怖い存在であり、また、原告ケサ子と原告ナカの間は折り合いが悪いなど、魅力に乏しかった。更に、昭和六〇年九月二四日、清二が帰宅していないのに心配せず、翌日、法事とはいえ、原告ナカ、原告清及び原告金也が栃木県へ行くなど常識では考えられない行動を取り、帰ってからも清二の行方を探さなかった。また、一週間前に清二が今までしたことがない洗濯をしているのに、家族で話し合ったり学校に連絡することもなく放置した。

(二) 原告らの反論

(1)  清二の家庭には、嫁姑の葛藤等全く問題がなかったわけではなく、理想的な家庭ともいえなかったが、右葛藤の程度は決して深刻なものではなく、一般的な家庭でごく普通に見られる程度のものであった。

清二の兄の原告金也が清二にとって最も怖い存在であったというのも、同原告が両親や祖母とともに清二を指導監護する機能を事実上分担していたからである。清二にとって原告金也は怖いが頼りになる優しい兄貴だった。清二方では、家族各自が清二に対する養育監護機能を補完し合いながら清二を放任せず放縦な生活態度に陥らないようにしていたのであり、家庭内に機能的な欠損などはない。また、清二にとって家庭が帰りたくない所ということはなく、利信からの金銭強要を原因として外泊等したときを除き定時に帰宅していたし、清二は、学校では暗くなるが、学校の外では明るかったのである。

(2)  利信の清二に対する暴行、金銭強要その他のいじめは、その大部分が学校内及びこれと関連する生活関係において発生したものである。そのため、家庭としては、いじめの実態を認識しうる立場になかった。これに対し、学校側は遥かに容易にかつ幅広く実態を把握しうる立場にあった。そのうえ、学校から清二の家庭にされた通知連絡は、その殆どが清二の問題行動に対応する措置を保護者に要請するもので、清二がいじめられている事実はごく一部が報告されたに過ぎない。このような状況下で、家庭が自殺にまで至る程の清二の苦悩を認知できなかったの当然である。

むしろ、清二の家庭では右状況にありながらも、わずかに得た情報をもとに精一杯いじめ解決のための努力を払っていた。即ち、原告ナカや原告金也が教師に連絡して清二に対するいじめをやめさせてくれるよう頼み込んでいたし、原告金也は何度か利信ら加害生徒宅に赴いて直接注意していた。

(3)  以上のように、清二の家庭に機能的欠損はなかったし、清二への養育監護を十分機能させ、清二を学校生活におけるいじめから護るため可能な限りの努力を払っていたのであり、清二の死につき家庭に原因ないし過失はなかった。

(4)  清二は、利信から、長期間絶え間無く極めて悪質で人間が生きる意欲を保持するうえで最も重要な基盤をなす人間としてのプライドを根底から覆すいじめ地獄にさらされており、そのうえ学校側の偏頗な指導態度が加わり、万事窮して自殺に追い込まれたものであって、清二の内面では、自殺するかしないかの自由意思は残されていなかった。したがって、自殺について清二に原因ないし過失はない。

5  原告らの損害の算定

(原告らの主張)

(一) 清二の逸失利益

清二死亡当時の賃金センサスによる男子全年齢平均給与である年額三二八万八〇〇〇円を基礎とし、生活費割合を四割、満一八歳から六七歳までの四九年間就労可能として計算すると、三六二七万三〇八四円となる。

原告清及び同ケサ子は、清二の父母として、右につき各二分の一である一八一三万六五四二円宛相続した。

(二) 慰藉料

清二の死亡により、原告清及び同ケサ子が清二の父母として受けた精神的苦痛に対する慰藉料は各一〇〇〇万円、原告金也、同早苗、同光男及び同ナカのそれは各五〇〇万円を下らない。

(三) 弁護士費用

右(一)、(二)の損害の合計額に一割を乗じた、原告清及び同ケサ子につき各二八一万三六五四円、原告金也、同早苗、同光男及び同ナカにつき各五〇万円である。

第三争点に対する判断

一  利信の清二に対する加害行為の全体像及びこれと清二の自殺との因果関係の有無(争点1及び2)

1  利信の清二に対する加害行為としては、先に第二、一7ないし9にそれとして列挙したもののほかに、学校側に知られていなかった個別具体的な事実として以下のものが認められる。

(一) 清二は昭和五九年一二月から同六〇年二月一一日までの間に、利信に唆されて車上狙いをし、車の所有者に発見された。(〈証拠〉)

(二) 昭和六〇年七月中旬ころ、清二と菅野に対して、その日のうちに一〇〇〇円を集めるよう命じ、同日清二から一〇〇〇円の交付を受け、更に、翌日、小川中の先輩である吉田正人(以下「吉田」という)に渡す必要があるとして一万円を持って来るよう命じた。(〈証拠〉)

(三) 同月下旬ころ、休み時間中に教室内で、竹刀を用いて清二の頭、腹、背中等を二〇回位殴打した。(〈証拠〉)

(四) 同年七月初めころから同年九月上旬ころまでの間、清二に対し、約一〇回にわたり、雑草を無理に食べさせたが、うち一回は、大きな葉で雑草を巻いたものを無理に食べさせ飲み込ませたため、清二は、その直後に気持ちが悪くなり、嘔吐した。(〈証拠〉)

(五) 同年九月四日、技術の授業時間中、清二に対し、パンとジュースを買って来るよう命令したが、清二が断ったため、腹を立て、先端のビニールをはぎ取って金属の導線の先端を丸めたビニールコードで清二を殴打しようとした。すると、清二は、床に正座し、頭を下げながら、「これで甲野君と縁が切れるのなら何をしてもいいです。」と繰り返し利信に訴えた。しかし、利信は、更に憤激し、右コードの先端で、清二の頭を一回強く殴り、ついで腕や手の甲あたりを三回位殴り、見かねた同級生が制止したため、右暴行を中止したが、これにより手の甲に真っ赤なみみず腫れができる程度の怪我を負わせた。(以上につき、〈証拠〉)

(六) 同月中旬ころ、下校途中、清二に対し、煙草約八本をたて続けに吸うことを強制し、そのため、清二が気分が悪くなって嘔吐するのを面白がって見ていた。(〈証拠〉)

(七) 清二が三友とよく遊び、同人に利信からのいじめについて相談しているのに腹を立て、同月一四日、清二に立ち会わせ見張りをさせながら、三友に対し、「何でお前は清二と遊ぶんだ。」と言いつつ、ボール紙製のパイプで強く殴り、更に「これからは一言も清二と話すなよ。」と命令した。(〈証拠〉)

(八) 同月一六日ころ、清二に対し、自己の小遣い銭とするため、清二に二万円を持って来るよう命じるとともに、他の生徒にも、吉田へのカンパなどと称して、金を持って来るよう強要した。(〈証拠〉)

更に、同月一八日ころ、吉田から一万六〇〇〇円を集めて持参するよう命じられたとして、同月一九日朝、学校で清二に対し、右一万六〇〇〇円に自己の使用する四〇〇〇円を加えた二万円を、集める生徒の氏名を指示したうえ、翌日までに集めるよう命じたが、その際、前に命じていた二万円を催促すると、清二が「忘れちゃった。」と言ったので、休み時間に、便所において、清二の顔面を手拳で二回位殴った。そして、翌二〇日朝、学校で、清二に、利信自身のための二万円について、持って来たかと聞いたところ、清二が「忘れちゃった。」と言ったので、便所で清二の顔面を手拳で二、三回殴り、清二に、その日のうちに右二万円と吉田の分とを持って来るよう命じた。(以上につき、〈証拠〉)

清二は、同月一八日ころから同月二〇日の間、菅野の協力を得て、利信からの指示にあった生徒らから金を集めるなどして一万六八〇〇円を作り、同月二〇日の昼休みにこれを利信に渡した。その際、利信は、これを吉田宛のものとして受け取り、更に利信自身のために二万円も持参するよう命じた。そこで、清二は、同日午後に五〇〇〇円を作って利信に渡したが、利信は、その際、残りも持参するよう更に催促した。(以上につき、〈証拠〉)

2  以上に認定した個別具体的な事実のほかにも、次のような事情が認められる。

(一) 利信は清二に対し、一年生時から自分の子分の如く支配的に振る舞い、清二が言うことを聞かないときなどには、殴る蹴るの暴力を振るっていた。金銭強要も一年生時から既に見られた。(〈証拠〉)

(二) 利信は、二年、三年生になってからはより多額の金銭を要求するようになった。清二はこれに応じてきたが、第二、一7の(五)の申合せに従い、給食費等を原告ナカが直接持参するようになった三年生時からは、これを使うことができなくなったため、同級生や下級生から借金したり、カンパと称して金を集め、更には盗みを敢行することさえあった。(以上につき、〈証拠〉)

利信は、清二に対する暴力をもエスカレートさせ、顔や頭、腹、足等ところ構わず殴ったり蹴ったりするほか、掃除用具等で殴打する等の強度の暴行を多数回(月に数度以上)重ねていた。暴行のきっかけは、清二が利信に要求された金銭を渡さなかったり、利信の命令を聞かなかったときや、清二が利信の金銭強要等を教師らに告げた時は勿論、なんらの理由もなく単に遊び半分や憂さ晴らしでなすことも多かった。

これら清二に対する金銭強要、暴行などは殆ど教室、廊下、便所等の学校内及び下校途中でなされた。更に、利信は、右金銭強要等の事実を教師らに伝えられるのを防ぐため、清二に対し、「親や先生に言うな、言ったらヤキ入れるぞ。」などと言い、清二が教師や家族等に言いつけたことにより注意を受けると、一段と激しく清二に暴行を加えるのが常であった。(以上につき、〈証拠〉)

(三) 利信は、教師らから注意指導を受けても、何ら反省することなく無視し、その直後にも前と同様の行為を繰り返していた。生徒らも利信について右のようにみており、また、教師らの指導について、利信ら問題行動のある生徒に対してそれが表面化した都度一応は注意をするものの、指導が弱く逃げ腰で頼りにならないものと感じていた。(以上につき、〈証拠〉)

そのため、生徒たちは、教師らに利信の清二らに対する加害行為を告げても仕方がないし、かえって告げたことにより清二らや更には自分自身まで利信から暴力を受けることになるのではないかと怖れ、これらの事実を教師らに進んで告げることは殆どなかった。(〈証拠〉)

(四) 清二は、二年生の一〇月六日ころまでは、教師に事実を告げて、相談したこともあったが、教師らが将来にわたって利信の暴力等を根絶する有効な措置をとらず、かえって酷い暴力を受けたため、その後は、教師らから尋ねられても利信から受けた暴行や金銭強要の事実を話さないようになっていった。(〈証拠〉)

清二は、三年生になってから、四月に他校から転任してきた担任の大河原教諭から、被害を受けた場合は、相談するように指導されたこともあって、四、五月には同教諭に打ち明けていたが、その後は、再び話さなくなり、利信との間の問題について事情を聞かれても、ただ沈黙するばかりであり、更にはこれを否定するようにもなった。(〈証拠〉)

清二は、利信の暴力のため、二、三年生時、よく泣いたり、顔を腫らしたり目のまわりに隈をつくったり、腕をみみず腫れにしたりなどの怪我を負ったりしており、この事実は家族の知るところであったが、清二は、家族から原因を問われても、転んだと言い訳したり、何でもないと答えるのが常であり、そのため、原告ケサ子などは次第に訳を聞くこともしなくなった。(〈証拠〉)

3  これまで認定したところを総合すれば、利信と清二との関係は、仲良しグループであるとか、立場の互換性があるものであるなどということでは決してなく、既に一年生時に形成された支配と被支配の関係がますます強められ、完全に固定化していたことが明白である。

そのような関係の中で、清二は利信から既にみたとおりの暴力や金銭強要その他を受け続けていたものであって、これはまさに近時大きな社会問題化しているいわゆる「いじめ」そのものにほかならず、それも極めて程度の重い悪質なものであったといわなければならない。

清二は、性格的におとなしく従順で、自主性に乏しく、意思が弱いところがあるとみられていた生徒であり、また、学業成績も概して芳しくないなど(〈証拠〉)、いじめられる対象としてはまさに格好の存在であったということであろう。現に、清二は利信のいじめに対して何ら抵抗することもできず、殆ど利信のなすがままにされ続けてきたことが認められる。

もっとも、そのような清二にあっても、ある時期には教師や家人にいじめの事実を訴えたり(第二、一7の(四)や8の(六)など)、また、自ら利信の支配から離脱したいとの姿勢を示したこともあった(前記1(五))が、その都度、利信から一層激しい報復的な暴行を加えられ、或いは徹底的に制圧されて、結局いずれも功を奏さないままに終わったのである。清二にとっては、利信のいじめが待ち受けているだけといってもよい学校生活は辛く苦しいものであったと想像される。清二とほぼ同様の立場に置かれていたものとしては三友と菅野がおり(〈証拠〉)、特に三友は清二が心を許すことのできる殆ど唯一の友人であったが、利信はその三友に対して「清二と口をきくな。」と言って、それも当の清二を見張りに立たせたうえで、暴行を加えるということまでする有様であった(前記1(七))。ただ、三友はある時期からは金銭強要には応じないとの態度で臨み、その替りに一層ひどい暴力を受けることになったが、、それに耐えきるといったある種の強さを持っていたし(〈証拠〉)、菅野はいじめの事実を頻繁に家人に訴えてその庇護を頼み、しばしば欠席するといういじめ回避の手段をとることもできたのであるが(〈証拠〉)、後に詳しくみるとおり、清二の家族は清二が学校を欠席することを許さなかったために、清二は欠席することさえできず、わずかに、休み時間等にはせめて職員室周辺にいる(〈証拠〉)とか、場合によっては早退することによって、一時的に利信のいじめから逃避するという手段が残されているだけであった。

このように、清二は、逃げ場もないままに、苛烈で執拗ないじめに曝され続けてきたのであるから、これによって清二が心身共に深く傷つき、苦悩してきたであろうことは容易に推察されるところ、いかに若々しい生命力に溢れている筈の中学生といえども、その主要な生活関係である学校生活の場で、このように自己の全人格や人間としての存在基盤そのものが否定されるようないじめを受け続けたのでは、生きる意欲を失い自らその生命を絶つという挙に出たとしてもあながち不可解なこととはいえないように思われる。

現に、清二が利信からひどくいじめられていたことを知っていた生徒達は、清二の自殺の報に接して、直観的にそれは利信からいじめられたためであると受けとめたことが認められる(〈証拠〉)。

そして、〈証拠〉等の「いじめ」や「子供の自殺」に関する専門的な文献は、子供たちがいじめにあって意外な程に脆く自殺してしまうことがあることを指摘していることをも考慮すれば、清二は利信のいじめに遂に耐えきれなくなって自殺したものと一応推認されるのである。

4  しかし、一方で、以前から清二が自殺するのではないかということを思わせるような徴候や兆しがあったことを認めるに足る証拠はない。そして、自殺直前の九月二一日に起きた事件(第二、一9)は、その時期及び内容からして、清二の自殺に深い関わりがあるのではないかと推察されるところ、清二は同日午後三友方に遊びに行き、その際三友に対して「俺は利信が一番嫌いだ。この前から利信に二万円持ってこって言われてんだ。持ってかなければなんね。」などと話していたことが認められる(〈証拠〉)から、ここでも清二は未だ自殺を考えておらず、何とか二万円を都合して利信の要求に答えることによりその場をしのごうと思っていたものと解されるのである。(ただ、清二は同日教室荒らしをしているところを香野教諭に発見されたため、利信から金銭を強要されていることなどを同教諭に申告し、同教諭から「先生から甲野をよく指導しておくから心配するな。」と言われているのに、清二がこの件について全く触れず、しかも香野教諭の右言明にも拘らず、依然として二万円を利信に渡さなければならないと考えていたということをどのように解すべきかという問題は残る。おそらく、前段については、理由はどうあれ教室荒らしをしてそれを教師に現認されたということは、清二にとって極めて不名誉なことであるから、できれば三友に対しても秘匿しておきたかったということであろうし、後段は、清二が香野教諭の利信に対する指導に余り期待をかけておらず、利信の金銭強要がやむことはないものと考えていたということなのであろう。)

ところが、清二の家出後に判明したところによると、清二は未だかつてなかったことであるが自分の机の上をきちんと整理し、約一、二か月前からつけ始めた日記が机の上に置かれていたが、それには、前の週の日曜日に三友ら友人達と遊んでとても楽しかったという趣旨の記載のある部分が最後にあって、それ以前の分は全部破り棄ててあったことが認められ(〈証拠〉)、この事実と、前記のとおり清二は翌二四日朝校門の前で姿を消して家出したまま二五日夜には自殺したことを併せ考えれば、清二は同月二三日夜までには自殺を考え或いは少なくとも容易なことでは家に帰らないという類の、自殺に結びつきかねないような相当重大な覚悟に裏付けられた家出を決意したものと思われる。そうすると、二一日夕方三友方から帰宅した後二三日夜までの間に清二に気持ちに決定的な変化が生じたものと解されるところ、二二、二三日の連休を清二がどのように過ごしたかは必ずしも証拠上明らかではなく、わずかに原告ケサ子の供述中に、清二の様子は普段と変わったところはまったくなかったとある程度であるが、この間に、〈1〉菅野が二一日夕方ころ清二に電話して、「利信が、同日香野教諭に注意されたのは清二が告げ口したからであるとして清二を見つけて暴力を加えようと考え、同日午後菅野を引き連れて清二を探し回ったが遂に見つけられなかったため、腹を立て『火曜日(連休明けの同月二四日)出てきたらヤキをいれてやる。』ともらしていた。」旨伝えたこと(〈証拠〉)、〈2〉同月二三日午後八時ころ、大河原教諭が清二方に電話して、原告ケサ子に対し、明二四日朝学校に来て貰いたい旨連絡したこと(〈証拠〉)は、清二の自殺の原因を究明するうえで看過し難い出来事のように思われる。もっとも、〈2〉については、既にみたとおり、同月二一日中にその旨申し渡されていたことであるから、いわば予期していたことがいよいよ現実のものになったという意味合いを持つにすぎないし、また、〈1〉で明らかになった利信の反応も、これまでの清二の経験からすれば十分に予想しうることであったというべきなのではあろう。しかしながら、教室荒らしについて母親が学校に呼びだされることによってそれが家人に知られてしまう(なお、この点に関して、原告ナカの供述調書(〈証拠〉)中には、大河原教諭の電話があったので、原告ケサ子に尋ねたところ、教室荒らしの件が判明したため清二に注意を与えた旨の供述調書があるけれども、これは原告ケサ子の供述(〈証拠〉)等に反するものであって容易に信用し難い)ということは清二にとってまことに気の重いことに違いなく、また、利信から加えられるであろう暴行は清二をして十分に恐怖せしめるに足るものであったと思われる。清二にしてみれば、教室荒らしを現認されて窮地に陥った挙句のこととはいえ、長い間の沈黙を破って利信の金銭強要等の事実を申告したのであるから、それにはやはり相当の決意を要したであろうし、したがってそれによって生ずる事態についても清二なりの思いを巡したことと思われるのではあるが、香野教諭の指導が利信に対して何らの規制となりえない(清二が利信の金銭強要がやむことはないだろうと考えていたことは前記のとおりである)ばかりか、かえって利信の清二に対する怒りと報復をかくも早く招来せしめるだけであるということまでは予想していなかったのではないかと推測される。しかも、利信は二一日午後から清二を探し回り、それが徒労に終わっているわけであるから、利信の怒りは並大抵のものではないであろうこと、それ故に菅野も心配してわざわざ連絡してくれたのであろうことなどを、清二は十分に察しえたものと思われる。清二の恐怖が並々ならぬものであったであろうとする所以である。

(菅野の供述調書中には、清二は電話口で「そんなの構わねえ。」と普通の調子で答えたとあるけれども、これは、利信に連れられて清二を探し回ったという菅野に対して精一杯強がって平静を装ったとも考えられるし、それ以上に、これがそもそも電話を介しての会話であることからして、菅野が清二の反応を正確に把握しえているものとすることもできないのであって、いずれにしても右の点をもって、前記認定判断を左右することはできない。)

そして、二三日夜になると、翌朝にはいよいよ利信の激しい制裁が待ち受けている学校に行かなければならないということがさし迫ってくるわけであり、そこへ追い打ちをかけるようにして〈2〉の大河原教諭からの電話があったわけであるから清二の心が重くうち沈んでしまったであろうことは容易に想像される。かくして、清二はその夜のうちに、翌朝登校せず、そのまま家出してしまうことを決意したものと思われる。

以上検討したところによれば、前記3の推認はますます強められこそすれ、全く揺るがされることはないのであって、利信のいじめと清二の自殺との間に因果関係があることは明白である。

この点に関して被告の主張するところは、利信のいじめの実態についての十分な認識と洞察を欠いたところに組み立てられたものとの感を免れず、到底採用することができない。

(もっとも、自殺については「主たる動機は一つか二つであると言えるが、他の様々な動機が複雑に絡み合い相互に影響し合って自殺に導くものである」と指摘されている(〈証拠〉)ところであるから、被告が主張するような清二自身や清二方家庭の問題も自殺の一要素になっている可能性をも完全に否定しさることはできず、特に、後記三のとおり清二方家族の清二に対する指導監督には、決して軽視することのできない問題点があったと考えるものであるが、主たる原因が利信のいじめであることは疑いをいれない。)

二  被告の責任(争点3)

1  小川中の校長以下の教師らに生徒を指導監督するべき義務及び生徒の安全を保持(配慮)すべき義務があることは当事者間に争いがないところ、中学校が義務教育の場であって、生徒は学校に登校しなければならず、登校して自宅に帰るまでの相当長時間、もっぱら学校及びこれに近接する区域内で教師らの指導下で他の生徒とともに生活しなければならないことを考えると、右安全保持義務は、親権者の保護監督義務に比べて副次的なものとみることはできず、生徒が学校内及びこれと密接に関連する生活関係下にある間は、親権者の保護監督義務と同等のものと考えるべきである。

しかしながら、学校は、生徒にとって、直接にしかも集団的に他人と接するという意味において、家庭とは質的に異なるいわば一個の社会であり、生徒は、学校生活の中で、教師の指導を受けることによってばかりではなく、他の生徒との軋轢や時には喧嘩などの衝突をも通じて、たくましく成長し社会生活に適応する能力を身につけていくという一面があること、したがって、学校生活においておよそ生徒間の衝突が起こらないように、学校側が常時管理監督するというようなことは決して相当ではなく、また、実際上も、多人数の生徒が集合し、学級単位でみても数十名の生徒を対象としなければならない以上、右のような管理監督をなすことは到底不可能であることは被告の主張するとおりである。

換言すれば、学校側の安全保持義務ということが生徒に対する過保護・過干渉をもたらすようなことがあってはならないのであって、特に、中学校においては、生徒達は心身両面にわたって急速に成長を遂げ、それなりの判断力や自制心を備えてくるし、後記のとおり被害を訴えるなどの方法により自己を防衛する力も有してくる時期であるから、かなりの程度生徒達の自主性・自律性に委ねておくべきものである。ただ、その反面では、中学生もなお未熟な子供達であり、被影響性も強いから、特に彼らが集合体として存在する学校生活においては、集団心理が働くなどして途方もない無責任で危険な行動に走ることもないとはいえない。それ故、学校側としては、この点についての警戒心をもって生徒達の動向に関心を払い、もしもある生徒(達)の行動により他の生徒の生命は勿論、身体、精神、財産等に重大な危害が及ぶことが現実に予想されるというようなときには、これを放任することなく、直ちに事態に応じた適切な措置を講じて、結果の発生を未然に防止すべく努力しなければならない。

そして、右のような生徒の行動の中でも、特にいじめの場合には、後記2(一)のとおり、それが本来陰湿で隠微なものであるため容易に表面化せず、たまたま表面に現われたときには質量ともにそれとは比較にならない程の深刻な事実が潜在しているのが常であるから、この点を十分に考慮してかからねばならないのである。ただ、当該いじめの実態を余さず把握することは容易ではないし、また、中学生といえば、被害を受ける側においてもこれを自ら教師や家人に訴え、救けを求めることができる筈であると考えてもよいであろうから、学校側としては、生徒或いはその家族からのその旨の訴えや事実の申告があることを期待するのはある程度やむをえないところである。

以上検討したところによれば、いじめについての学校側の安全保持義務は、既に一定の事実が把握されており、その事実だけからしても重大かつ深刻ないじめの存在が推察されるという時のほか、生徒やその家族からの具体的な事実の申告に基づく真剣な訴えがあったときには、前記のいじめの特質に思いを致して決してこれを軽視することなく、適切な対処をしなければならないということになる。

そして、右の対処の仕方としては、まず第一に、迅速に、しかし慎重に、当事者達はもとより必要に応じて周囲の生徒など広い範囲を対象にして事情聴取をするなど、周到な調査をして事態の全容を正確に把握することが肝要である。その際には、学校側が調査に乗り出したことによって、被害生徒に更に増幅されたいじめが加えられないよう、場合によってはその間の被害生徒の登校を見合わせることも考慮するなど、十分な配慮をしておかなければならない。

右のような事実調査の結果、放置することのできないいじめの実態が解明されたときには、当事者達だけの問題としてではなく、当事者生徒が所属するクラス全体、場合によっては当該学年全体(当事者生徒の所属クラスが異なる場合など)、更には学校全体の問題としてこれを取り上げ、いじめがいかに卑劣で醜い行為であるか、また、被害生徒の屈辱や苦悩がいかに大きいものであるかなどを、加害生徒は勿論、生徒達全員に理解させると共に、周囲の生徒達にはいじめを決して傍観することなく、身をもって制止するか、或いは教師に直ちに報告する勇気をもって欲しいということを訴え、他方、被害生徒に対しては、自らいじめと闘う気概をもつことの大切さを説ききかせ、それができそうにもない生徒であれば、いじめを受けた時には全てを包み隠さず担任教師や家人に申告することを約束させるなどの教育的手段を講ずべきである。その上で、一定期間は特に注意深く当事者生徒の行動を見守り、その結果いじめが根絶されたと信じられるときは平常の態勢に復するが、なおいじめが継続されているときには、再度、加害生徒の保護者をも交えるなどして、場合によっては「このまま事態が改善されないときには、児童相談所や家庭裁判所への通告というような手段をとらざるをえない」ということも明示するなどして、より一層強力な指導をなすべきであり、更には、学校教育法二六条の出席停止の措置をとることをも検討したうえで、それでも依然として何らの効果もみられず、加害生徒がなおも暴力、金銭の強要などの悪質かつ重大ないじめまたはその他の問題行動を繰り返し、これにより被害生徒の心身に重大な障害が生じることが予想され、或いは加害生徒の非行性が相当深化しており、これをこのまま放置しておくことにより更にその生徒の非行性を深化させ、その将来にとっても好ましからざる結果を招来するものと考えられるときは、学校としては、もはや学校内指導の限界を越えるものとして、警察や家庭裁判所その他の司法機関に対して、当該行為を申告して加害生徒をその措置に委ねることもまた必要というべきである。

以上が、本争点を検討する際にその前提とすべき学校の注意義務についての一般論である。

2(一)  小中学校における児童生徒間のいじめは、昭和五八年以前から全国的に顕著になり、同年ころからは新聞、雑誌等の報道に盛んに取り上げられるようになり、昭和五九年、六〇年には社会問題視されるようにまでなっており、警察庁の実態調査によると、昭和五九年一年間で、いじめにより一九二〇人が警察に補導され、いじめによると見られる自殺者は、小学生が一人、中学生で六人に達していた。昭和六〇年においても、同年二月から八月まで殆ど毎月いじめによる自殺、自殺未遂等いじめによる重大事件の報道がなされ、いじめ対策をめぐっての教育関係、法務省、警察、自治体、民間等各界の動きを伝える記事、いじめ問題に関する評論、連載記事は同年一月以降毎月数回も掲載されるようになり、同年四月十九日の新聞では前記昭和五九年の実態調査の内容が、同年九月二二日の新聞では同様の昭和六〇年上半期の実態調査の内容が詳報された。これら新聞記事では、補導にまで至った事件のほかにも表面化したいじめは数多いが、いじめが陰湿で潜行しやすいため、表面化したのはごく一部であり、実際には殆どの学級で起きているほど広範囲に存在するであろうこと、潜行する一つの原因として、被害者が仕返しを怖れて教師らに告げられないことなどが指摘されていた。昭和六〇年三月一日発行の書籍中では、生徒の自殺と学校生活との関連も非常に深いものと推察され、その中でも、いじめによる自殺が、教師による叱責や成績不振、進学の悩み等とともに重要視され、しかも昭和五〇年代から昭和六〇年代にかけて増加傾向にあるものと見られ、この点、教師の子供の生活に対する日頃からの注意により自殺の前兆を見出し防ぐことも可能であり、教師の子供に対する指導、特にいじめられる生徒に対するその心理を考慮しての指導に問題があり、工夫するべきことが指摘されていた。(以上につき、〈証拠〉)

(二)  いわき市の教育界においても、昭和五八年ころからいじめ問題が注目されており、昭和五九、六〇年ころには、いわき市教育委員会から市内の中学校にいじめの実態調査といじめ問題解決のための指導に関する指示が度々出されていた。昭和六〇年二月には、同委員会が市内の全中学校を対象に「『いじめ』の実態について」と題するアンケートを実施し、また、いわき市教育長から市内の全中学校に宛てて、同年六月二七日に「いじめに対する実態把握と指導対策」、同年七月一五日に「児童生徒のいじめ問題に関する指導の充実」の各文書通知が発せられ、いずれもそのころ小川中にも届いた。更に、同月一二日には福島県教育長から「『いじめ』について」の文書通知が発せられた。(以上につき、〈証拠〉)

3(一)  小川中には、校長一名、教頭一名、教諭一七名程度、その他の職員が三名程度存在し、クラスは、一年生から三年生まで各三組のほか特殊学級一組があった。各クラスには学級担任と副担任がおり、クラス生徒の生活、学習、進学、就職指導等について責任者となっていた。各学年の学級担任、副担任のうち一名が学年主任となって、学年全体の生徒指導につき責任を持ち、学校全体としては、生徒の生活指導について、計画を立てたり、全校生徒の指導にあたる教師として生徒指導主事がいた。学内の会合としては、全教職員の加わる職員会議があるほか、生徒の生活指導については、校長、教頭、生徒指導主事、各学年主任、教務主任から構成される生徒指導委員会があり、年に数度不定期に開かれており、生徒の生活上の全校的な問題が生じた場合、同委員会で協議される建前であった。また、企画委員会や職員研修会において、生徒指導の心構えや方法が話され、朝の始業時等に随時職員打合せが開かれ、当面する予定、生徒指導上の問題点等についての指示が伝達されていた。

昭和五八年ないし昭和六〇年を通じ、生徒指導については、校長、教頭の方針として、全職員同一歩調で実践することが強調されており、生徒指導委員会等各種会合、打合せにおいて、問題傾向を持つ生徒に対し、その動向を良くつかみ、指導を充実するべきこと、家庭に連絡を取って、家庭との連携を深めるべきことが時々指摘されていた。

(以上につき、〈証拠〉)

(二)  生徒間のいじめの問題については、昭和五九年一一月二一日の企画委員会で、弱い者いじめの問題は各クラスや学年での指導が大切であり、一人一人の動きをよく把握して継続した指導をするべきことが指摘され、昭和六〇年五月二日の生徒指導委員会では、いじめやいたずらの傾向がないか注意すべき旨指摘され、同年六月一三日の同委員会においては、いわき市教育委員会配付のいじめに関する印刷物について説明がなされた。同月一四日の職員研修会においては、同月一一日のいわき市の研修会からの伝達として、いじめに関すること(友人関係の問題)が取り上げられた。また、同年七月一六日、前記「いじめに対する実態把握と指導対策」の文書通知が教師らにプリント配付され、右事項につき指導された。同年八月二七日前記「児童生徒のいじめ問題に関する指導の充実」の文書通知が教師らに配付され、各学級での実態把握と指導を指示された。(以上につき、〈証拠〉)

したがって、右の事実と前記2を総合すれば、昭和五九、六〇年当時小川中の教師らとしてもいじめに対する問題意識とそれなりの認識をもち得る状況にあったものということができる。

(三)  しかし、小川中におけるいじめに対する現実の取り込みとしては、前記昭和六〇年二月に実施されたアンケートに対しても、「いじめ」と思われるような行動は一件あったが、現在は指導解決しているので当該事例がない旨回答され、その後も、教職員ら間で全校的に、いじめを早急に解決すべき課題とする共通認識に至らなかった。昭和六〇年四月以降の全校的な各種会合、打合せにおいては、生徒の生活上の問題点としては、生徒の服装の乱れや教師に対する暴言や反抗的態度が主として取り上げられて協議されており、特に同年七月以降、生徒らの教師らに対する授業妨害、暴力の事実が顕著になったため、同年九月六日の職員研修会等で、このような問題の討議及びこれに対する対策が焦点とされており、いじめについては、抽象的には触れられても、具体的に協議され、解決に向けて全校的な行動として取り組まれたことはなかった。(以上につき、〈証拠〉)

なお、小川中では校長の方針等により、生徒指導上の問題が生徒、父兄から持ち込まれ、または教師らが問題を発見した場合の指導について、一次的に学級担任において責任をもって指導し解決することとし、その解決方法として、先ず学級担任のみで解決する方法を取り、これで解決できない時には学級担任が父兄と話し合いをもって解決し、それでも解決できない問題については、学級担任が生徒指導主事に報告し、生徒指導委員会で協議して学校を挙げて解決に取り組むこととされていた。(〈証拠〉)

(四)  ところで、既にみたとおり、利信の清二に対するいじめは、一年生のころから発生し、二年生時以降次第に悪質化しつつ継続していたものであり、しかも、そのうちの一部の事実については学校側においてもこれを把握していたのである。即ち、二年生時の昭和五九年五月から一〇月にかけて第二、一7の(一)ないし(四)のとおり、数千円という、中学生間のそれとしては決して小さいとはいえない金額の金銭強要や暴行があり、また、それを回避するために清二が学校を抜け出すというような事件が再三発生し、更に、同(五)のとおり、同年一〇月ころには清二が家人に持たせられた給食費等を合計二万円も使い込んでいたことが判明したのであって、この使い込みは利信の金銭強要と関連があるのではないかと疑われるのである。その後、清二が利信のいじめを教師に訴えることをしなくなったということもあって、暫く表立ったいじめはなくなったが、同(六)のとおり、昭和六〇年二月ころにおいても清二の早退が多いことなどから、担任の斎藤教諭は、清二がこれを否定するにも拘らず、なお、利信のいじめが続いているのではないかと感じていたところ、後期三1(三)のとおり、同月一二日学校を訪れた原告金也から利信の清二へのいじめについて相談をうけていたものである。

三年生になっても、第二、一8の(一)、(三)、(四)、(六)及び(九)のとおり、同年四月から五月にかけて利信のいじめの事実がたて続けに明らかになった。そして、清二は三友や菅野と共に、休み時間には必ず職員室前にいるようになり、大河原教諭らにおいても、清二のこのような行動は利信らのいじめから逃れるためのものと推測できる状態であった。このように、同年四、五月ころには、利信の清二に対するいじめが継続していることは学校側にとっても周知の事実であり、大河原教諭が、利信に対してその都度注意しても同種のいじめが頻繁に繰り返され、清二がいじめを逃れるために早退する等の逃避的行動をなしていた状況にあったものである。

そうすると、学校側において把握しえている事実だけからしても、決してこれを軽視したり、放置して済ませられるという状況にはなかったものというべく、まして、いじめの特性からすればその背後に更に深刻な事態があることも十分に予想されるのであるから、学校側としては、二年生時のしかるべき時期、どんなに遅くとも三年生時の昭和六〇年四、五月ころのいじめが相次いで表面化した際に、少なくとも利信及び清二から過去の同種行為について詳しく事情を聴取し、必要に応じ、他の生徒らから事情を聞くなどしていじめの全体像の把握に努めるとともに、利信のいじめ再発及び仕返しを防ぐために、学校の教職員全体による協力体制を作り、学級全体の問題として他の生徒に協力を求めるなどし、その下で継続的に利信らの行動観察、指導をするなどの実効ある方策をとるべきであったものといわなければならない。

しかるに、清二に対する利信のいじめの問題については、担任教師が概ね単独で担当し、他のクラスの生徒も加わった事件については他クラスの担任とともに処理し、時々香野教諭とともに処理していたという状況であり、教頭または校長は、時々報告を受け、指導の仕方について指示をし、時には直接指導に加わったこともあったが、これが生徒指導委員会に取り上げられたり、全校的に解決にあたられたということはなかった。三年生時は、担任の大河原教諭が中心となって対処したが、同教諭をはじめこれに関与した教師らは、利信の清二に対するいじめは、学校全体として取り組む程の重大な問題ではないと考え、問題行動が判明した都度関係生徒に注意指導することで、当該生徒が繰り返さないことを期待し、右一時的な注意指導を殆ど唯一の方法とし、そのほかには、時に清二や利信の家族に連絡するという程度であった。右教師らの一時的な注意指導のやり方は、殆ど、表面化した問題行動である貸借、金銭強要、早退、盗みなど個々的に捉え、これらについて、清二や利信に良くないから以後繰り返さないよう口頭で注意する程度で終わらせるものであり、最近の利信と清二との関係、事件の動機や原因、清二の心境等には余り触れられず、問題の全体像を探り出したうえ、利信や清二を全人格的に指導し、抜本的な解決を図ろうとする姿勢及び行動は全く見られなかった。また、右教師らの利信に対する指導が及び腰であったことは否めなかった。即ち、加害者である利信が言い訳をすると、これが不合理なものであってもそれ以上追及調査せず、そのまま受け入れてこれを前提として指導するのが常であり、利信は、注意されても余り反省の態度を示しておらず、右教師らもそのように感じながらも、それ以上に強力な指導は殆どなされなかった。(以上につき、〈証拠〉)

このように、学校側がいじめの全体像を把握する努力をしないまま、表面化した問題行動について形式的で、その場限りの一時的な注意指導を繰り返したのみで、しかも加害生徒である利信に対して及び腰であったところから、このような学校側の対応が利信を更に増長させ、その後も清二に対する悪質ないじめを継続することにつながったものといわざるをえない。

(五)  加えて、清二の自殺の直前である昭和六〇年九月二一日に発生した教室荒らしに対する学校側の態度はいかにも問題であるということを指摘しないわけにはいかない。清二は、既にその以前から、教師の指導が利信のいじめを制止する力を有しないばかりか、却って教師に訴えたことによって一層激しい暴行を加えられるということを身をもって知り尽くしていたために、教師に対して頑なに沈黙を守るか、或いはまた、積極的に否定するという態度に徹していたのであったが、この時は、教室荒らしという重大な非行を香野教諭に現認されて、いわば進退谷まっていたからであろう、その以前にも同様の非行を繰り返していたことを告白すると共に、それが利信の金銭強要に端を発していることも告げたのである。しかるに、同教諭は、清二に対して〈1〉清二が利信から要求されていた金銭を実際に利信に交付したのか否かという重要な事実を確認することを怠り、〈2〉清二が教室荒らしをしなければならない程までに金策を迫られていたのに、同月一九日に窃取した金員(清二の申告によれば九五〇円であるが、実際の被害額は一一〇〇円であった)を何故利信に渡さずに買い食いなどに費消したのか、また、二一日も飴玉二個まで盗んでいたことをどのように説明するのかなど、清二の告白の矛盾ないし明らかな疑問点を解明するのを怠ったうえ、〈3〉利信に対して、清二に一九、二〇日の二回にわたって暴行を加えたことが事実か否かを確認せず、〈4〉大河原教諭や草野校長に対しても、清二が教室荒らしの動機として述べた利信の金銭強要という重大な事実を告げなかったことが明白である。

確かに、同教諭もいうとおり、清二の供述には右〈2〉のような疑問があるうえ、要求されている金額も中学生にしては分不相応といってもよい万単位のものであるから、同教諭が清二の供述を信用できないものと受けとめたことにも一応の理由がないわけではない。しかし、それだからといって、同教諭が〈2〉の疑問点を解明する努力を何らすることもなく、また、最も肝心な〈1〉の確認も怠ったまま、右のように断じたことは、事が教室荒らしという重大な非行の動機に関わることであり、しかも清二の申告が事実であるとすれば、教室荒らし以上に深刻かつ重大ないじめの実態が解明される機会になるわけであるから、生徒指導主事の立場にある同教諭のとった態度としては到底納得し難いものがある(当裁判所としては、〈3〉、〈4〉をも併せ考えれば、いじめが小川中に存在することが明らかになるのを怖れるような気持が同教諭にあったのではないかという疑問さえ払拭し難い程である)。そして、もしも同教諭において〈1〉を確認していれば、清二も、既に金銭強要の事実を申告しているのであるから、利信に二度にわたり合計二万一八〇〇円を交付済であることを隠し通すようなことはなかったものと思われるのである。また、この点の事実確認がなされていさえすれば、「冗談で言った。」という利信の弁解をいれる余地はおよそなかった筈である(もっとも、仮にこの点をひとまず措くとしても、〈3〉の点を利信に確認しないまま右弁解を受け容れるということ自体大いに疑問である)。

更には、大河原教諭や草野校長に対して、清二の申告内容や利信の弁解などをありのまま報告していれば、同校長らから香野教諭のとった措置やその背景にある事実認識等について右に列挙したような疑問点が指摘されることも期待でき、ひいては利信の清二に対するいじめについての学校側の認識が一挙に深まった可能性もあったかもしれないのである。そして、遅まきながら、この時点で、先に述べたようないじめ問題に対する真剣な対応策がとられておれば(その手はじめに徹底した事実調査に着手していただけでも)、清二の自殺という最悪の事態を十分に阻止することができたものと思われる。

しかるに、香野教諭の〈4〉のような態度のために、草野校長らもこれを単なる教室荒らしとして捉らえることとなり、それ故専ら清二に対して説諭し、また、保護者を呼んで被害金品を弁償させることを清二に承知させるというような対応をするに止まったのである。このような学校側の対応は、客観的には、清二が意を決して申告したことを全く意に介さない、いわば清二の必死の訴えを踏みにじるようなものであったといわざるをえず、当然のことながら、清二にもそのようなものとして写ったであろうことは疑いをいれないところである。

(六)  以上によれば、学校側(熊谷、草野両校長をはじめ、二階堂教頭、斎藤、大河原、香野各教諭ら)に、利信の清二に対するいじめに対処するうえで過失があったことは否定し難いものといわなければならない。

また、これまでみたところからすれば、学校側の過失と清二の自殺との間に相当因果関係があるものということができる。

(七)  なお、原告らはこの問題を論ずるに当たって、第二、二3(一)(3) のとおり、学校側は清二の自殺を予見することができたし、予見すべきであったということを前提としているのに対し、被告は、清二が自殺することは、清二の家族ですら予見しえなかったものであるから、学校側においてこれらを認識予見することは不可能であったと主張して争っているので、既に述べたところから明らかではあるが、念のため、ここでこの点についての当裁判所の判断及び見解を示しておくこととする。

学校内の悪質ないじめにより被害生徒が自殺に至ることがあるということは、前記2(一)のとおり、当時しばしば雑誌、新聞等で指摘されていたところであって、学校側において、前記注意義務を尽くせば、本件いじめの経緯や深刻な実態等を知り得べき立場にあったものであるから、一般論としては清二の自殺も予見不可能なものであったということはできないかもしれない。しかしながら、通常、いじめを受けて自殺を考える程に苦悩しているというのであれば、その前兆として、教師に対する必死の訴えがあり、それ以上に家人に対する悲痛な叫びのようなものがある筈であり、また、何はともあれ顕著な登校拒否症状が生ずるであろうと考えられる。

ところが、清二の場合には、家人に対してさえも深刻な苦悩の様を明らかにしたということはなく、また、それ程目立った不登校もないのである。勿論、後者については、後記三1(二)のとおり、原告ナカら家人が容易に欠席することを許さなかったという結果であって、現に、大河原教諭が清二に対して「お前欠席が少ないな。」と言ったところ、清二は「休むとおばあちゃんに叱られる。」と答えたことが認められる(〈証拠〉)のであるから、同教諭としてはその間の事情を知っていたものと思われるのであるが、それにしても、原告ナカに叱られないよう登校するというのであるから、清二にとって、自殺を考える程の苦痛は学校生活にはないのであろうと判断したとしても、そのこと自体を非難することはできない。

このように、清二に予て自殺の兆しがあったというまでの事実はおよそ認められない以上、学校側において清二が自殺することを予見すべきであったということはできないものと考える。しかし、そもそも学校側の安全保持義務違反の有無を判断するに際しては、悪質かつ重大ないじめはそれ自体で必然的に被害生徒の心身に重大な被害をもたらし続けるものであるから、本件いじめが清二の心身に重大な危害を及ぼすような悪質重大ないじめであることの認識が可能であれば足り、必ずしも清二が自殺することまでの予見可能性があったことを要しないものと解するのが相当である。

4  右小川中教師らの過失は、公権力の行使たる教育活動としての被告の職務執行につき生じたものであるから、被告は、国家賠償法一条一項に基づき、右過失により原告に生じたとみられる損害について賠償責任がある。

三  過失相殺またはその類推適用など(争点4)

1  清二の自殺については、以下にみるとおり、清二の家庭のあり方や清二に対する指導にも問題があったものといわざるをえない。

(一) 清二の家庭では、清二の父母として本来ならば清二を第一次的に指導監督すべき立場にある筈の原告清と原告ケサ子が殆どその役割を果たすことなく、原告ナカが主としてこれに当たり、大きな問題が起こった際に原告金也が指導に加わるというのが実情であった。その原因としては、父母が共に仕事に追われていたという事情もあるであろうが、その点では原告金也とてほぼ同じ条件にあるのに、その原告金也に比較しても父母の影の薄さは否定すべくもないのであって、両名共に保護者としての自覚に乏しく、そもそも監護の意欲も能力も高いとはいえなかったことが窺われるのである。例えば、原告清は後記(三)のとおり清二の車上狙いの件で利信方に苦情を申し入れに行ったことはあるが、これとて被害者である車の所有者から促されて漸く出かけたというものに過ぎない(〈証拠〉)。清二の成績や進路についても概して関心は低く、おそらくこのような原告清の態度は清二の学校生活全般についていえることであろうと思われる。また、原告ケサ子は清二の二年生時と三年生時に各一回学級懇談の際に来校したことがあるのみであり(〈証拠〉)、昭和六〇年九月二四日に来校したのも、たまたま前夜大河原教諭の電話で同原告がその旨要請されたからにすぎない。したがって、清二が同月二五日に三友に対して「母ちゃんに怒られた時云々」などと言ったというのも、前日の二四日に原告ケサ子が学校に呼び出されていたからであって、格別原告ケサ子が清二の指導に熱心であったことを物語っているものではないと考えられる。現に、原告ケサ子は、右大河原教諭からの電話を受けた際にも、清二に「何かしたか」と尋ねたが、清二が黙ったままだったので、それ以上は追及しなかった〈証拠〉というのであり、このようなところにも原告ケサ子の無関心な態度の一端がのぞいているものというべきであろう。なお、原告ケサ子は清二からせがまれるままに、使途を確かめることもなく、頻繁に一〇〇〇円、五〇〇円、三〇〇円と小遣いを与えていた旨力説する(ケサ子供述)のであるが、それが事実であるとすれば、却ってそのような態度は問題だとされなければならない。

(二) 一方、清二に対する指導監護の中心であった原告ナカは、学校を訪れ、度々電話連絡をし、担任教師の家庭訪問の都度これに応接し、清二へのいじめについても時々善処方を頼むなど、清二の指導にも熱意と関心を有していた(〈証拠〉)が何分にも高齢であって、しかも清二とは違って強い性格の持主であるところから、清二の心情や苦悩を分かってやることができなかったという側面があることを指摘しないわけにはいかない。原告ナカの指導の重点は、あくまで清二を学校に行かせることにあり、したがって、清二が学校に行くのを嫌がっていることを感じ取れたにも拘わらず、その原因を思いやることをせずにひたすら出席させ(〈証拠〉)、給食費などの学校に納入すべきものとして清二に持たせた金員を清二が使い込んだことが判明すると原告ナカが直接持参して納入することとし(第二、一7の(五))、清二が嘘をついて早退したことが分かると原告ナカの手紙がなければ早退させないように担任教師に連絡する(第二、一8の(九))というように、清二がなぜ右のような行動に出たかというその動機や背景事情、とりわけ清二の心情などに思いを致すことなく、いかにも機械的で形式的な対策を講じたにとどまったのである。このような対応は、原告ナカの熱意とは裏腹に、ただ清二の逃げ道を狭める結果となり、清二をますます窮地に追い込むこととなったものといわざるをえない。

(三) 原告金也は、以前は家族と別居して稼働しつつ、清二の家出などの問題が発生した都度帰省して清二に注意するなどしていたが、昭和五九年八月転職のうえ同居するようになり、その後は、清二に問題が起こるたびに、清二に対し注意指導し、「しっかりしろ」などと強く説教することもあった。(〈証拠〉)

原告金也は、清二が利信に唆されて車上狙いをし、これが車の持主に見つかったことがことがあった(前記一1(一))際、原告清と共に利信の家に赴き、利信にこのようなことを二度としない約束をさせた(〈証拠〉)。そして更に、同年二月一二日学校に行って、斎藤教諭と面談し、利信のいじめの問題等について話し合った。(第二、一7の(七))原告金也は、清二が同年四月に大内に殴られて早退した際にも、大内宅へ行って、事実関係を確認したうえ、大内とその父親に謝罪させ、二度としない旨約束させた。大内は、その前に幾度か清二をいじめたことがあったが、その後はいじめなくなった(〈証拠〉)。また、原告金也は、同年五月ころ、清二が利信からいじめられて学校を早退したことを聞き、利信宅へ行き、利信の母親の面前で、利信を殴って制裁を加え、二度と清二をいじめないことを約束させた。更に、同年九月ころ、清二が利信から三〇〇〇円を要求された旨聞いて、利信に電話をし事実の確認をした。(〈証拠〉)

このように、原告金也は兄として清二のことを真に思いやり心配していたこと、その行動が一定の成果を生んだことがあることも認められるけれども、何分にも若年であるうえに、原告金也自身はいかにもきびきびした青年であって、清二とは対照的にしっかりした性格の持主であることが窺え、そのために、おとなしく全般的に覇気に乏しい清二に対しては余りの不甲斐なさにいら立ちを覚えることさえあったろうことが容易に推察されるのであり、それが前記のような強い調子の説教にもなって現れたものと思われる。なお、原告金也は、清二に対して殴るなどの体罰を加えたことはない旨供述しているけれども、原告金也が他人である利信をも殴って制裁を加えていることや、右にみたところ及び清二がとりわけ原告金也を怖れていたことが窺えることなどに照らせば、この点は疑問が残るところである。

そして、このような原告金也の指導にも、前記(二)においてみた原告ナカのそれと共通の問題点があったことは否めない。即ち、自分とは対照的なまでに弱い性格の持主である清二の心情を清二の立場に立って理解してやるといった姿勢に欠け、ひたすら「しっかりしろ」などと叱咤するばかりであり、そのために清二を怖れさせていた面があることは否めない。また、利信のいじめに対する対処としても、利信にいじめの卑劣さや醜さを分からせるとか、清二が自らの力でそれを撥ねのけうるようにさせるべく支え励ましてやるというのではなく、原告金也自身が前面に出ていきなり利信を殴りつけて制裁を加えるといった短絡的な手段に出るなど、いささか熟慮に欠けるところがあったものといわなければならない。

(四) 清二の家庭状況、就中清二に対する家族の指導の実情が以上のようなものであったところから、清二にとって家庭は学校生活の実情について話しやすい雰囲気を持ちえず、そのためもあって、清二は利信のいじめについて家族に進んで話すことがなかったものと思われる(もっとも、これには、家族に話した場合の利信の仕返しのおそれも災いしたものと認められるのであるが、そのことを考慮に入れても、家庭に話しやすい雰囲気があれば、清二は、右仕返しの心配を含め、家族に打ち明けたであろう)。

こうして、家族も、学校から連絡を受けたり、清二の友達から聞いたり、無断早退など清二の問題行動が発生するたびに清二に問い質すなどして、清二がいじめられていることをある程度知ってはいたが、既に詳細にみたような重大かつ悪質ないじめを受けて苦しんでいるという深刻な事態を十分に認識することができず(〈証拠〉)、したがって、清二をそのような窮状から救い出すための適切な措置をとることができないまま推移したのである。

また、清二方家族は、九月二四日に清二が家出をした後、前記一4のようないささか異様な状況を認識したのに、「叱られるのがいやで隠れて寝てたんだろう。翌朝には帰ってくる。」などと考えて、事態を深刻に受けとめることなく、翌二五日には原告清、同金也、同ナカの三名は連れ立って栃木県の親戚方の法事に出席するため出かけてしまったのである。(〈証拠〉)

(五) そうすると、このような清二の家族側の問題点も清二の自殺を招き、或いはこれを阻止しえなかった要因をなおしており、しかもその程度は学校側のそれに決して劣らない程に大きいといわざるをえない。なるほど、本件の利信のいじめは、主として学校内においてなされたものであるから、事実そのものには家庭よりも学校の方が近いところにいるということはできるわけであるが、既にみたとおり、いじめが本質的に陰湿で隠微なものである以上、学校側としても、いじめられている当の被害生徒からの申告がなければ実態を把握することは必ずしも容易ではなく、そのような本人からの訴えは、精神的にも最も安らぎをえられる筈の家庭においてなされる可能性が高く、また、被害生徒がいじめによって心身共に傷つき苦しんでいる様子は、集団の中の個にすぎない学校よりも、肉親の情愛をもって接する家族においてこそ感じとることができるという側面があるものと考えられるからである。

2  次に、清二自身の問題点を看過することができない。

既にみたとおり、清二のおとなしく内気で、意志が弱いなどといった性格が利信につけ込まれてそのいじめの対象とされ続けた末、遂に清二の自殺という悲惨な結果にまでつながったわけであるが、その間にどこかでこれから脱却する手段をとりうる余地がなかったのかという疑問はやはり拭いきれない。

利信の暴力に敢然と立ち向かい、或いは金銭強要を拒絶するというような正面きっての抵抗を清二に期待するのは無理であろうし、そもそもそれができるようであれば最初からいじめの対象とされることがないという筋合のものである。しかし、〈1〉担任や家族らに対し一部始終を打ち明けて救いを求めたり、〈2〉せめて登校拒否をするというようなことさえできなかったのかということはいってもよさそうである。もっとも、清二にしてみれば、〈1〉は早くから試みたのであるけれども、その結果は利信の一層激しい暴力を受けただけであり、〈2〉は原告ナカに登校を強制されてできなかったということなのかもしれない。しかし、〈2〉については、利信のいじめの苛烈さを考えれば、されにもまして抗しえないものであったというようなことは到底考えられず、〈1〉と併せて「このようにひどいいじめを受けているから学校に行きたくないのだ。」と訴える位のことは期待してもよいように思われる。

更に、損害の公平な分担という理念からすれば、清二にとってはやむにやまれぬことであったとはいえ、少なくとも周囲の者にしてみれば突然に、自殺という最悪の解決方法を選択してしまったこと自体について、清二が一定の責任を負うべきこととされるのはやむをえないところである。

3  以上検討したところをまとめのば、当裁判所は、過失相殺ないしはその類推適用の考え方によって、清二が右2のようにした自殺したということ自体について四割強程度の責任分担をなさしめるべく、また、前記1でみた清二の家族らの責任をも考慮すれば、原告らに生じた損害のうち、七割までは原告側の負担とし、被告については三割の限度で責任を負わしめるべきこととするのが相当であるものと考える。

なお、清二の自殺は、既に見たとおり、清二の性格的な弱さがあったところに利信の悪質で苛烈ないじめが加えられたことを主因とし、これに学校側の過失行為や清二方家族の問題点などが副次的要因として相互に絡まってもたらされたものとみることができ、したがって、学校側と利信側のそれぞれの行為は共同不法行為の関係をなすわけであるが、いじめという積極的な故意に準じる利信の加害行為に比べ、学校側の過失行為はあくまで消極的な不作為によるものであって、清二への影響のあり方は大きく異なっていたものというべきであるから、本件において過失相殺を検討するにあたっては、専ら被告の過失と原告ら(清二を含む)のそれと比較衡量されるべきである。

四  損害(争点5)

1  清二の逸失利益

(一) 清二は自殺当時満一四歳の健康な男子であったことが認められるから、死亡しなければ、通常満一八歳から満六七歳まで就労可能であり、この間、少なくとも昭和六〇年賃金センサス男子高卒初任給年額一八四万九六〇〇円の収入を得られたものと考えられる。

したがって、右年収をもとに、この間の生活費を五割控除し、中間利息年五パーセントをホフマン方式により控除して逸失利益の現価額を算出すると、

一八四万九六〇〇円(年収)×〇・五(生活費控除)×(二五・五三五(五三年のホフマン係数)-三・五六四(四年のホフマン係数))=二〇三一万八七八〇円

となる。

(二) 清二の死亡により、その父母である原告清及び同ケサ子は、右逸失利益相当額の損害賠償請求権を各二分の一である各一〇一五万九三九〇円を相続したものということができる。

2  原告らの慰藉料

清二が死亡したことによる精神的な損害としての慰藉料も、本来ならば父母である原告清及び同ケサ子について相当額が認められるべきであるが、前記三1でみたような清二方の家庭状況に照らせば、実質的な親代りとして清二の監護指導に当たっていた原告ナカについてもこれを認めるべきである。そこで、当裁判所は、慰藉料としては、原告清、同ケサ子について各五〇〇万円、原告ナカについて三〇〇万円とし、原告金也、同早苗、同光男についてはこれを認めないこととするのが相当であるものと考える。

3  原告らの有する損害賠償請求権の金額は、原告清及び同ケサ子が各一五一五万九三九〇円、原告ナカが三〇〇万円となるところ、これについては、前記三でみたところにより七割の減殺をするべきであるから、結局、原告清及び同ケサ子について各四五四万七八一七円、原告ナカについて九〇万円が被告に請求しうる損害金である。

また、弁護士費用に当たる損害額としては、原告清及び同ケサ子について各五〇万円、同ナカについて一〇万円が相当である。

五  結論

よって、原告らの本訴請求は、被告に対し、原告清及び同ケサ子において、各五〇四万七八一七円、原告ナカにおいて、一〇〇万円並びにこれらに対する清二の自殺した日の翌日である昭和六〇年九月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、右原告らのその余の各請求並びに原告金也、同早苗及び光男の各請求はいずれも理由がないから棄却することとする。

(裁判長裁判官 西理 裁判官 園田小次郎 裁判官 高田泰治)

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